アートで元気になるプロジェクトニュース

アートで元気になるプロジェクトのニュースと活動記録です。

大阪大学の記憶の劇場2展示会始まりました!

気がつけば、ものすごくブログを更新していませんでした。

実はいろいろとやっていたのですが、その中で大変苦労したものを紹介します。

心斎橋が石橋だった頃のペーパークラフトです。

私は大阪大学で開催されている講座「大学博物館を活用する文化芸術ファシリテーター育成講座<記憶の劇場2>」に参加しています。今年のテーマは「橋」で、それぞれ橋について、なんらかの研究を行い、発表するという内容。

何にしようかと考えていたところ、心斎橋が鉄橋だった頃のペーパークラフトを見せてもらい、これは面白いと思い、石橋だった頃のペーパークラフトを作ってみようと思いました。ペーパークラフトは過去に2~3個作ったことはあるし、簡単そうだし。

この軽い甘い考えが、後にとても苦労することになるのでした。

まず、資料がありそうでない。絵はがきなどはあるのですが、斜めから撮影したものが多く、全体像がわからない。あっても小さな画像で、詳しい寸法がわからない。

現在の心斎橋には昔の石橋の一部が残っているが、どうやら今に合わせて加工したようだ。どの石がどこに使われていたのかわからない。欄干だけ残っていたのが唯一の救い。しかし、これだけの資料で出来るのか?

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まずは残っているものをメジャーを持って実測。心斎橋のすごい人通りの中、1時間以上測りました。ガス灯は手すりの上にちょっとお邪魔して、測りました。

そして写真からイラストを書き起こし、測った寸法に基づき、少しずつ作成。それでもやはりない部分は全くわからない。特にバルコニー部分はどうにもならない。それでも絵はがきを見ながら書き起こしていく。

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そして、書き起こしたものをプリントして、切り抜き、組み立てる。

どこかおかしい。また変更する。また組み立てる。まだおかしい。また変更する。

サイズが合わない。また変更する。ず~とこの作業。心が折れそうになりながらの作業。たまに人に話をすると冷たい目で見られる。仕事でもないことをようやってますね。結構なご身分で。みたいな感じであきれられるか、無視される。余計に心が折れてくる。

そしてやっと出来たのが、これ!

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これが出来た夜はこの前で一人ビールを飲んでお祝いをしました!

感無量でした!

というわけで出来たきたのはこんなキット。

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これを今も残る心斎橋の話を書いた冊子に挟み込んで、展示会でなんと無料配布します!ちょっとしわが入ってますが、これは私が作ったダミー。

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B5サイズのカラー8ページの冊子。

これが手に入る展示会はこれです。

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是非お越しくださいませ。

ただし、配布は3月3日以降となります。

ご注意ください。

芦国プロジェクト②

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

昨年は36年間のサラリーマン生活に終止符を打ち、自営業という道を選びました。

当初はあれしてこれしてと考えていましたが、実際にはなかなか進まない。

会社員の生活では経理やWEB、製造、営業と分業されていましたが、

全部一人でやるとなると結構大変。

特にWEB関係。

ヤフーショッピングをオープンするのに3ヶ月もかかった。

もう一つが経理ソフト。

やってみたらわかるだろうと安易に考えていたけど、

全く入力の仕方がわからない。

多分、この2つで4ヶ月間はかかったと思います。

話は元に戻して、芦国プロジェクト。

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上方の浮世絵はそれほど歴史は古くない。

まずは浮世絵の話。浮世絵は錦絵のことを言うようで、

それ以前の役者絵は錦絵ではなかったらしい。

この2冊を買って勉強中です^_^;

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この本によれば、錦絵は江戸から入ってきたもので、江戸時代の後期1791年以降の話。

まず最初に上方浮世絵を描いたのは「流光齋如圭」という方。

この方の絵はとても特長があり、写実的であった。

その後、弟子の「松好齋半兵衛」という方が出てきて、

そして、今回の「蘭英斎芦国」が出てくる。

順番はこうだが、時代はダブっているが、少しずつズレる。

活躍時期が流光齋如圭が1790年代で、芦国は1800年代。

芦国の生年ははっきりとしていないが、多分1975年前後だと思われる。

そして亡くなったのは1820年と書物には書かれているが、

今回1818年とわかった。

この墓は前回も書いたが、和泉砂岩という石で出来ている。

とても柔らかいので、彫りやすいという特長がある。

そのため、墓の面にもすばらしい彫刻がある。

それがこれ。

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これは芦国自身の絵を彫ったものだと思われる。

しかし、状態はかなり悪い。

裏面は既に崩落しており、残り三面も崩落寸前。

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この崩落を止めるために、すごい人が現れた。

日本の国宝の修理をされている方で、主に仏像の修復をされている方。

たとえば、運慶の仏像も修復されており、私のよく知っている吉野の

蔵王堂にある蔵王権現の修復もされている。

そんなすごい方がボランティアで参加してくれました!

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左の方がその方。

右は私の従兄弟の浜田さん。つむら工芸の社長です。

ということで修復作業が始まりました。

続きは次回へ

 

芦国プロジェクト始動しました①!

きっかけはご縁から。いろんなところで、いろんな方と会って、いろんなことをしているとご縁は広がるもんなんですね~。

実は昨年、大阪大学が主催の「大学博物館を活用する文化芸術ファシリテーター育成講座」を受講し、「道頓堀の看板」をテーマとした小冊子を制作しました。

それがこれ。

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とんぼりって言葉、「とん、とん、とんぼり、道頓堀の~」っていうCMソングを思い出します。

この今やアジアのエンターテインメントシティでもある道頓堀。ここには今に至るまでに数々の歴史があります。そのすべてを書くわけにもいきませんので、この小冊子は「看板」に注目したものです。

その中で私が書いたページが2ページあります。

私の祖父(津村英雄)は映画館の看板絵師でした。その祖父の師匠は3世芦国(荒金芦国)と言います。その師匠に初代芦国(一勇斎芦国、稲葉芦国)という方がいました。

この方は歌川派の系列で、その上をたどると歌川国芳に繋がります。

詳しくは下記を

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昔の人は偉かった!つくづくそう思いますね。

さて、今回の発端はこの芦国です。

実は天王寺区のお寺から芦国の墓が見つかったんです!これは初代芦国の墓ではないのか!という一報が入りました。聞くところによると、無縁仏の場所にあり、砂岩で出来ているため崩壊寸前の状態。

系列の者としては修復保存せねばならぬ!とちょっと思いました。

しかし、2日間程よ~く考えてみたら、ちょっとおかしい。

初代芦国は明治時代の人、見つかったお墓は1820年に建てられたもの。1820年は文政3年で江戸時代。?????

そう別人だったんです!江戸時代の芦国は「蘭英斎芦国」と言います。この大阪に時代は違うが芦国は二人いた!

ということは全く知らない人?

ここでまた疑問が出てきます。

何故、明治時代の(一勇斎)芦国は、江戸時代にいた(蘭英斎)芦国の名を使ったのか?

一勇斎芦国は国芳の系列なので、弟子は皆「芳」の文字が付いてます。しかし、芦国と名乗った。これは何か関係があるのかも・・・

しかし、江戸時代の終わりから明治時代の初めにかけての資料はあまり残ってません。

そこで時系列や蘭英斎芦国の芦国派の活動などを調べていき、なんらかの関係があるのでは?という結論に達しました。

この詳細はまた後日に書きたいと思います。

ということ、この上方浮世絵「蘭英斎芦国」のお墓を修復保存する活動が始まりました!

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アートで元気の天王寺公園長生庵企画イベント終了しました!③

長生庵企画最終が「月読みの和芸術」です。

関西在住の女性アーティスト7名による和の芸術作品の展示及び販売です。

まずはあちらこちらに展示された墨アーティストのイマタニタカコさんの作品です。

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特製の和紙に描かれた墨絵は大胆かつ美しいですね~。

庭にも作品が展示されていました。日本の庭園にぴったり!

土曜日は雨だったのですが、破れることもなく、風に揺られていました。

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広間では三重の伊賀から出展してくださった伊賀組紐の藤岡かおりさんが、

組紐の実演をしながら、織について説明をしてくれました。

多くの方がその作業を見て、その手間のかかる工程にびっくりされていました。

1cm織るのにも時間がかかるんです。

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古い道具を使ったアクセサリーの太田裕子さんも人気でした。

ファンの方が次から次と来られて、お目当てのアクセサリーを購入されていました。

f:id:artdegenki:20171129134408j:plain板の間には最近大活躍の北野きよさんのおちょこが展示販売されていました。

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きよさんのおちょこはいろんな色やサイズがあり、悩んで購入する人ばかり。

日本酒を飲みたくなるおちょこです。

手の置物はきよさんの左手らしいです。左手を見ながら、右手で作るそうです。

玄関入って右で展示販売されていた椿の実を使ったアクセサリーを作っているのは津村真澄さん。

今回が初めての展示と販売で、ドキドキだったそうですが、気に入って買ってくださるお客さまが多く、とても喜んでおられました。

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他には友禅和紙を使ったワークショップを開催されたRE:KAOさん、練り香のワークショップを開催されたサチさんと茶室のあちらこちらで愉しめるイベントとなり、

2日間で1,000人を越える来場がありました。ありがとうございました!

これで今年の天王寺公園長生庵イベントは終了です。

また、次回よろしくお願いします。

 

アートで元気の天王寺公園長生庵企画イベント終了しました!②

長生庵イベントの続きです。

数年前に石川県の能登地方を訪れた時に見た「花嫁のれん」が

とても美しく、それにまつわるお話にも感動し、

いつか大阪の方々にもお見せしたいという願いが叶いました!

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花嫁のれんとは、

花嫁のれん」は、幕末から明治時代初期の頃より、加賀藩能登・加賀・越中に見られる、庶民生活の風習の中に生まれた独自ののれんで、嫁入り道具の一つであり、実家の家紋が二つ染め抜かれた、華やかなのれんです。

花嫁が嫁入りのときに「花嫁のれん(男が婿入りするときには「花婿のれん」となります)」を持参し、花婿の家の仏間の入り口に掛けられます。玄関で合わせ水の儀式を終え、両家の挨拶を交わした後、花嫁はのれんをくぐり、先祖のご仏前に座ってお参りをしてから結婚式が始まります。

この説明を読んだだけでも、その場面が目に浮かぶようです。

今回は中能登町の方々のご協力により、花嫁のれんを展示することが出来ました。中能登町の広報誌にも掲載してくださり、大阪在住の中能登町の方も多数来場いただき、とても喜んでいただいたのが、うれしかったです。

中能登町の町長さんからもお花をいただきました^_^(下の画像の左下です)

ありがとうございました!

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さらに今回は男性が婿入りする時に持参する「花婿のれん」も登場しました。

こののれんのことを中能登の方の聞いた時は衝撃でしたが、

なるほど・・・という思いでした。全般で青い色が多いようです。

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奥の茶室には色打掛も展示しました。これは中能登のものではありませんが・・・

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最後に庭から見た画像をご覧ください。

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この画像で見るよりも美しいですよ。

皆さん、能登に行かれる際は是非、七尾で花嫁のれんをご覧くださいませ。

アートで元気の天王寺公園長生庵企画イベント終了しました!①

10月27日(金)から11月19日(日)までの毎週末に開催しました天王寺公園長生庵を使った企画が終了しました。

期間中はたくさんの方にご来場いただき、とてもうれしく思っています。

今回の展示会はまず木の糸を使った手編み作品の展示「LOOP光と影」10月27日(金)~29日(日)からスタートしました。

あいにく今年最後?の台風がやってきましたが、お知り合いの方や海外の方も多数来場いただけました。

暗くて少しわかりにくいですが、正面玄関には今回の展示会を象徴する作品が展示されていました。

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広間には天井から糸の玉や流木、作品が吊るされており、部屋の中を通る風に時々揺れてました。

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ここから見える庭に景色は最高です。この景色は最後の週の展示会にはかなり色づいていきます。

この次の展示会は昨年に続き、「和ぎれのキルト展」11月3日(金)~5日(日)を開催しました。昨年は4日間に2,000人近い来場があった人気の展示会です。

昨年も来られた方も多く、続けることの大切さを感じました。

そして、今回3日間で2,300人の方に来場いただき、慶沢園過去最高記録を達成しました!

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この作品はパンフレットの表紙にもなった作品です。着物や和の布を使った美しい作品です。

同じ広間に展示された作品

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奥の茶室がまたいい雰囲気でした。

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昨年同様に庭にも展示しました。

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秋の風に揺られて気持ち良さそうでした^_^

本当にたくさんのご来場ありがとうございました。そして、スタッフの皆さん、ご苦労様でした。

後半の2つの展示会の報告は後日に。

初代桂文枝の墓が2つある!

アートとは関係ない?と言われるかもしれませんが、ちょっと興味があったのでアップしますね。

大阪の天王寺区下寺町を歩いていて見つけた「初代桂文枝」の墓。

えー、こんなところにあの文枝さんの墓があるんやーとびっくり!

場所は円成院という時宗のお寺です。それがこのお墓

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横には戒名もあり、さらに反対側には妻と伜と娘の名がありました。

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しかし、ウィキペディアで調べると墓所はここではなく、全慶院というお寺。

ウィキペディアによると、・・・<初代 桂文枝1819年 - 1874年4月2日)は、本名同じ。明治維新戸籍ができた際に、本名も桂文枝とした。通称(あだ名)は「藤兵衛」。弟は桂文福といい、後に兄の通称(あだ名)の初代桂藤兵衛を名乗ったと伝わっている。近年、大阪市天王寺区の全慶院から墓碑が発見され、子孫の過去帳からも新たに出身や背景が確認された。>・・・

ちょっと興味が出てきたので全慶院へも行って来ました。

ありましたよ。初代桂文枝の墓が。

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しかし、何故2つあるの?

ウィキペディアにはこんな文章も・・・<法名:桂壽院善譽諦心文枝居士(けいじゅいんぜんよたいしんぶんしこじ)。墓所は全慶院。享年56。1880年の7回忌には、弟子らによって天王寺圓成院(別名遊行寺)にて記念法要が行われ、同所に上記の天王寺区全慶院のものとは別の墓も建てられている。その際、妻のサトは初代文三に2代目文枝の襲名を薦めたという。なお、サトは同年6月22日に没している。>・・・

そうです。妻のサトさんが文枝7回忌の時、円成院に墓を建てたとあります。

なんで?

ここでもう一つ興味深いのがウィキペディアに書いてある3代目桂文枝に関する文章・・・<大阪上本町の城代用達「橋本屋」の子として生まれるが、幼くして父と死別(一説には初代文枝の隠し子とも言われる)。近所に初代文枝が住んでおり、可愛がられたため、1869年頃に6歳(9歳とも)で入門。小文を名乗り、法善寺泉熊席で初高座。1874年、初代文枝が没し、兄弟子の2代目文枝門下に移る。1880年初代桂小文枝を名乗り、旅興行へ出る。1886年に帰阪。1904年、2代目文枝が桂文左衛門を襲名、それをきっかけに3代目文枝を襲名。襲名に関しては、初代の遺言で襲名する事になったともいう。>・・・

上記の文章をまとめると

1880年4月2日に初代桂文枝の7回忌があった。

・その時に妻は初代文三に2代目文枝の襲名を薦めた。

妻は同年6月22日に亡くなっている。

・3代目桂文枝は初代桂文枝の隠し子とも言われている。

・7回忌のあった1880年に初代桂小文枝を名乗り、旅興行へ出る

初代桂小文枝は1904年初代桂文枝の遺言で3代目桂文枝になる。

なんとなく想像できるのは妻の確執みたいなことではないでしょうか?

もう一つウィキペディアには書いてませんが、初代桂小文枝は旅興行から

1886年に大阪へ帰ってきます。この年に初代桂文枝の伜(清三郎)も亡くなっています。単なる偶然なのか?

昔のことなんでわかりませんが。

興味を持たれた方は一度お墓を見に行ってみてください。