アートで元気になるプロジェクトニュース

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初代桂文枝の墓が2つある!

アートとは関係ない?と言われるかもしれませんが、ちょっと興味があったのでアップしますね。

大阪の天王寺区下寺町を歩いていて見つけた「初代桂文枝」の墓。

えー、こんなところにあの文枝さんの墓があるんやーとびっくり!

場所は円成院という時宗のお寺です。それがこのお墓

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横には戒名もあり、さらに反対側には妻と伜と娘の名がありました。

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しかし、ウィキペディアで調べると墓所はここではなく、全慶院というお寺。

ウィキペディアによると、・・・<初代 桂文枝1819年 - 1874年4月2日)は、本名同じ。明治維新戸籍ができた際に、本名も桂文枝とした。通称(あだ名)は「藤兵衛」。弟は桂文福といい、後に兄の通称(あだ名)の初代桂藤兵衛を名乗ったと伝わっている。近年、大阪市天王寺区の全慶院から墓碑が発見され、子孫の過去帳からも新たに出身や背景が確認された。>・・・

ちょっと興味が出てきたので全慶院へも行って来ました。

ありましたよ。初代桂文枝の墓が。

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しかし、何故2つあるの?

ウィキペディアにはこんな文章も・・・<法名:桂壽院善譽諦心文枝居士(けいじゅいんぜんよたいしんぶんしこじ)。墓所は全慶院。享年56。1880年の7回忌には、弟子らによって天王寺圓成院(別名遊行寺)にて記念法要が行われ、同所に上記の天王寺区全慶院のものとは別の墓も建てられている。その際、妻のサトは初代文三に2代目文枝の襲名を薦めたという。なお、サトは同年6月22日に没している。>・・・

そうです。妻のサトさんが文枝7回忌の時、円成院に墓を建てたとあります。

なんで?

ここでもう一つ興味深いのがウィキペディアに書いてある3代目桂文枝に関する文章・・・<大阪上本町の城代用達「橋本屋」の子として生まれるが、幼くして父と死別(一説には初代文枝の隠し子とも言われる)。近所に初代文枝が住んでおり、可愛がられたため、1869年頃に6歳(9歳とも)で入門。小文を名乗り、法善寺泉熊席で初高座。1874年、初代文枝が没し、兄弟子の2代目文枝門下に移る。1880年初代桂小文枝を名乗り、旅興行へ出る。1886年に帰阪。1904年、2代目文枝が桂文左衛門を襲名、それをきっかけに3代目文枝を襲名。襲名に関しては、初代の遺言で襲名する事になったともいう。>・・・

上記の文章をまとめると

1880年4月2日に初代桂文枝の7回忌があった。

・その時に妻は初代文三に2代目文枝の襲名を薦めた。

妻は同年6月22日に亡くなっている。

・3代目桂文枝は初代桂文枝の隠し子とも言われている。

・7回忌のあった1880年に初代桂小文枝を名乗り、旅興行へ出る

初代桂小文枝は1904年初代桂文枝の遺言で3代目桂文枝になる。

なんとなく想像できるのは妻の確執みたいなことではないでしょうか?

もう一つウィキペディアには書いてませんが、初代桂小文枝は旅興行から

1886年に大阪へ帰ってきます。この年に初代桂文枝の伜(清三郎)も亡くなっています。単なる偶然なのか?

昔のことなんでわかりませんが。

興味を持たれた方は一度お墓を見に行ってみてください。